2024.12.30

サイトで調べても1週間はかかる「業界史の昭和56年」を2分でイッキ見!

*名称などは掲載当時のママ
昭和56年は業界にとってフィーバーブームに沸いた年であることは間違いないのだが、それはその後の景況感の良さから語られるひとつの側面に過ぎない。業界の歴史として振り返ると、従来の特電機を超えた性能に業界全体が戸惑った「超特電機問題」の年という側面の方が大きい。

前年暮れから巻き起こったフィーバー旋風は、一度図柄が揃うとVゾーンに入るたびにアタッカーが開放し、玉箱代わりにバケツを用意しないと間に合わないという、あまりの射幸性の高さを警察庁も問題視。6月3日に全遊協と日工組に対して、7月15日以降に新設する超特電機は、初回を含めてラウンド数は10回まで、スタートの記憶は4個までなどとする新要件を通知した。併せて、9月末日までに現行設置機はこの基準に合わせて改造するよう促している。

それに先駆けての5月27日には、全遊協が営業面における自主規制を制定。超特電機は総設置台数の30%以内とすること、玉箱にバケツを使用しないこと、「ただいま○○番台フィーバー中」などの店内放送を控えることなどを盛り込み、即日実施した。が、この時点ですでに33万台が市場に出ていただけに、「すでに30%以上ある店はどうするのか」「基板交換に関わる改造費用は誰の負担か」「デジタル付きアレンジも含めるのか」「10月以降の新要件機は自主規制に関係ないのか」などの混乱が広がった。

改造費用問題では全遊協と日工組との全面対決になるのだが、いずれにしても、この全遊協の自主規制と警察庁の素早い規制が、結果的にフィーバータイプを守ったこととなり、その後の業界発展の礎のひとつになったと振り返る業界関係者は多い。混乱の中にあって、組織としての舵取りを誤らなかった好例だろう。

ちなみに、前年の暮れには、ホール営業の不振を理由に、全遊協と日工組とで「1分間の発射個数を100個から130個に」「1回の最高賞球数を15個から25個に」と警察庁に陳情していた。「二要件の改定陳情」というものだが、そういうことをしなくても、その直後に射幸性が跳ね上がったのだから、なんとも皮肉である。

<その他、業界内のトピックス>

●同一メーカーの遊技機で営業するホールも多く散見された。

※平和の「タイガー8」はのちに「ゼロタイガー」と称される

●セブン機とハネ物との区別がなく、全て「超特電機」と総称されていた。この年の10月からの新要件に対応したもので、ラウンドの継続回数は8回だが、当時は10カウント規制がなかった。継続率自体は低かった時代で1回の出玉にはばらつきが大きく、それだけにハネの開放時や大当たり中には思わず息を止めていた客が多かった。

●射幸性の高さを問題視する警察庁による規制に先駆け、この年の総会において営業面での自主規制を決めた全遊協は、さらにこれを徹底させるために6月15日の緊急理事会(写真)で「超特電機を30%以上置いているところは7月15日までに撤去する」「打ち止め個数は打ち込み玉も含めて5000個以内にする」という2項目を追加した。

●サン電子のホールコンピュータは当時としては珍しかったブラウン管を採用してデータの見やすさをアピール。グラフ化してより見やすくなった。いわゆる「スランプグラフ」である。

●奥村遊機の超特電機「スカイラブ」はチューリップの連動と電動ヤクモノ、さらにボタン操作を組み合わせ、複雑だがゲーム性に富んだ機械を発表。

●東京神田の「アイウエオ」が店内に異業種である書店を併設。立ち読み客が多く、いろんな客で店内が賑わった。

●当時は遊技機メーカーによる合同展示会も珍しくなかった(大一商会と藤商事など)。

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